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歯科

dentistry

歯科とは、歯または口腔に関連した組織に発生した疾患に対し診療行為および保健指導を行う診療科です。

齲蝕や歯周病を中心とした口腔内の疾病を扱うことが多く、診療形態として殆どは診療所です。診療所内で日々、齲蝕、歯周病に対する処置や抜歯、歯科インプラント埋入術、顎骨嚢胞摘出術などの外来手術が行われています。

​大学の歯学部附属病院には、保存科、歯周病科、補綴科、口腔外科、歯科矯正科、口腔内科、小児歯科、歯科麻酔科等様々な診療科が存在しますが、全て歯科の範疇です。歯科医師であればこれらの診療科すべてにおいて医療行為を行うことが認められています。

明治維新以前、朝廷や幕府などの上流階級には、口歯科、口中科を専業にする医師がおり、口、喉、歯の治療をおこなっていました。一般庶民の歯科治療はというと、歯医、牙医、口中医師、歯薬師などと呼ばれる医師たちが行っていましたが、医師ではなく、芸や見世物で客寄せをし、薬や香の製造販売・歯の治療行為をする香具師(やし)や歯抜き師という人たちも存在しました。ガマの油売りのような人たちです。
我が国の入れ歯は、進化が早く、ヨーロッパには咬めない「見て呉れだけの入れ歯」しかなかった16世紀半ばに、「吸着し噛める総入れ歯」が作られていました。材料は硬くて軽く、耐水性のある黄楊(ツゲ)が一番とされ、中でも伊豆七島の本黄楊が最高級品とされていました。
歯科医師の歴史について少し纏めてみます。
日本で最初に歯科医師になった人物は、小幡英之助(おばた えいのすけ)です。
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木床義歯 歯の博物館より引用

歯科医師とは歯科医師法によって「専ら歯科医療及び保健指導を掌ることによつて、公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保するものとすることを責務とする」と定められています。歯科医師には歯科医療を行うこと、そして、保健指導を行うことによって国民の健康な生活を確保する責任があります。また、失われた機能を代わりの物で補填すること、すなわち補綴・充填・修復物の装着をすることは歯科医師のみに許されています。

仏師が仏像彫刻用のノミを用い、寺院関係で働く人々の入れ歯を作り始めました。これが、全国に広まり、江戸時代には「入れ歯師」と呼ばれる専門職業として定着していったようです。この「木床義歯」は、西洋からゴム製の義歯が伝えらえる明治時代まで用いられます。当時、江戸には卓越した技術をもつ「カリスマ入れ歯師」として有名になったものもいたとか。

話は戻ります。1875年(明治8年)、日本で第1回目の医術開業試験が行われました。

小幡英之助は「入れ歯師」や「口中科」ではなく、「歯科」での開業を目指しますが、医術開業試験に「歯科」はありませんでした。そこで知人を通じて東京医学校(現東京大学医学部)に願い出ました。東京医学校校長の長与専斎は、内務卿大久保利通にかけあい協議を重ね、その結果、小幡ただ一人のために「歯科試験」が行われることとなり、医術開業試験に合格しました。これは正確には歯科医師ではなく「歯科を専門として開業できる医師」ということですが、小幡が西洋歯科医学を学び、「歯科」という語を用いたことから、日本で最初の歯科医師とされています。

1883年(明治16年)に医籍とは別に歯科医籍が作られるまでは、医師と歯科医師という区別はありませんでした。では、歯科医籍第一号はというと、明治17年3月実施の歯科医術開業試験合格者、青山千代次が同年10月30日付で登録されています。

そのころ、歯科学を学ぶには、門人として弟子入りするというのが一般的で、小幡英之助も当時、来日していたアメリカ人歯科医エリオットのもとに入門して、修業に励み研鑽を積みました。1890年(明治23年)、 高山紀齋によって現在の東京都港区高輪に日本で最初の歯科医学校である高山歯科医学院(現東京歯科大学)創立されました。大阪歯科医学校(現大阪歯科大)が設立されたのは、1911年(明治44年)、国は歯科医師の育成に消極的だったのか、当時、国立の歯科医学校は設立されておらず、初の国立歯科医学校である東京高等歯科医学校(現東京医科歯科大学)が設立されたのは、小幡英之助が歯科医師になってから50年以上後の1928年(昭和3年)です。

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